人類が「時」を考え始めたのは何千年前のことであり、紀元前5000年頃にエジプトで日時計が作られています。"時を計る"道具 は、日時計のほか、水時計、砂時計、火時計などが考案されてきました。
日本では、西暦671年(天智10年)4月25日に天智天皇が初めて漏刻(水時計)を作り、時を知らせたという記述が日本書紀に見られます。時の記念日は、この日を太陽暦(グレゴリオ暦)に直して6月10日とされました。一方、その10年ほど前の西暦660年(斉明6年)にも中大兄皇子が漏刻を作られたとの記述があり、どちらにも「初めて」と書かれているので、その関係はよくわかっていません。これらの記録から、西暦660年に製作し、671年に日本で最初に時を知らせた時計と考えられています。
柳川養仙『漏刻説』 画像提供:近江神宮 |
飛鳥の水落遺跡発掘調査による想像図 (中大兄皇子の漏刻でないかとされている) 画像提供:奈良文化財研究所 |
人の一日の生活を振り返ると、常に時間と密接に繋がり時間と共に行動しています。その基準となる時間を、身近な存在にさせたのが時計です。いつの世にも、時間標準は異なるが時間を計測する道具は存在しました。人々は、その道具をウエアラブル機器へと進化させ、時間精度と携帯性の向上を限りなく求め続け、エレクトロニクス製品の中でも小型薄型・省電力機器(軽薄短小)の先頭を走るクオーツ腕時計に辿りつきました。一方、スイスはクオーツ化の波に押され、高級機械式時計分野に活路を見出しました。現在、世界をリードする魅力的な商品を、数々生み出している日本の時計産業について整理してみましょう。
1. 日本時計産業の変遷
日本時計産業の歴史を、「東洋のスイス」を目指し日本独自の時計作りをスタートさせ、現在に至る現代日本時計産業とそれ以前の概況について述べます。
現代日本時計産業の幕開けまで
画像提供:久能山東照宮 |
図1 クロックの側塗装工場 |
日本における時計産業の歴史は、16 世紀中期のキリスト教の伝来とともに始まったといわれます。宣教師に時計、オルガン、天文機械等の制作法を教わりました。
江戸時代に入り、外国から輸入された機械時計を参考に時計が多く作られるようになります。江戸時代の時計作りに大きな影響を与えたのが鎖国です。鎖国時代、欧米で用いていた「定時法」ではなく、「不定時法(夜明けと日暮れを境に昼と夜に分け、それぞれ6 等分する)」を採用しており、日本独特の和時計を生み出しています。夏と冬では昼と夜の長さが異なるため、それに対応した複雑な機構を作り出しました。
1872(明治5)年に太陰暦から太陽暦に変わるとともに、時刻の表し方も「不定時法」から「定時法」へと変わりました。和時計の終焉を迎え、欧米からの時計生産技術の導入が積極的に図られたのです。
1875(明治8)年に東京麻布の金元社で、柱時計(ボンボン時計と呼ばれた)を作り出しました。その後、木曽川の木材集散地であり、木工職人、小物鍛冶職人が多く居た名古屋地方で発達しました。 図1 はクロックの側塗装工場の様子です。
1894(明治27)年に大阪時計製造が、米国企業より機械設備を導入し米国人技師のもと、アンクル脱進機の懐中時計を製造したのが、工場生産の始まりとされています。明治後期の時計工場数は、20 を数え、全国の生産数(置掛時計)は年間約380 万個であったといわれています。日本の時計産業は、手工業型であるが日本人の器用さにより技術力が向上し、後の発展の牽引力となりました。
1.1 現代日本時計産業の概況
戦後、日本時計産業は「東洋のスイス」をめざしスタートしますが、第二次世界大戦の傷跡は大きく、戦災による設備能力の喪失は、ウオッチで60%、クロックで30% に及び、残った機械類も軍需生産に酷使され甚だしい性能低下を来たしていました。このような状況の下でも、豊富な労働力、残された機械、僅かに保有していた資材を利用して生産に乗り出したのです。その後も、資材の入手難および材質の低下、電力供給の悪化、労働問題など、他産業と共通の課題を抱えていました。
しかし、戦時中の時計不足を満たすための需要は内外ともに多く、作れば売れる状況であり、生産は年々増加の一途を辿り、一時は、企業数50 社近くに、工場数約70、従業員数約1 万人を数えたといわれています。この好況は、戦中の供給不足が生んだ一時的現象で、機械設備の老朽化、海外技術導入の途絶など課題が露呈し始めて、質的には戦前より劣っていました。(図2 参照)
図2 昭和20 年代の工場の様子 |
1948(昭和23)年商工省が実施した第1 回の品質比較審査会(時計コンクール)の結果では、止まりの故障が極めて多く、ウオッチで34%、クロックで28.7%の比率を示しており、翌年1949(昭和24)年第2 回においても、それぞれ21.6%、14.9%と向上したものの、全般的にはまだ戦前の水準には及びませんでした。
1950(昭和25)年初め、通産省が手動機200 台、半自動機300 台の自動化を含む、「時計工業合理化目標及び進捗状況」を発表したが、中小企業の多い国内時計業界にとって、一私企業の力での設備資金の調達は、極めて困難であり、合理化目標の達成は遠かった。しかしながら、輸入制限および保護関税による国内市場の確保とともに、1947(昭和22)年8 月以来の貿易再開後は、為替安によって主に東南アジア市場に輸出し、国内の旺盛な需要にも支えられて生産を伸長させることができましたが、品質を買われたとは思われぬ状態でした。
この後、国内市場においては、ドッジ・プラン「緊縮健全財政政策」および時計の高い物品税(時計には戦時から1947(昭和22)年3 月まで60%、以後1948年7 月末まで50%、その後30% の物品税)により、国内景気の冷え込み、国民の購買力の減退が起こりました。更に、1949(昭和24)年4 月、時計の2 本建てレート(懐中・目覚-430 円、腕・置・掛-410 円)が、360 円の円高単一レートに変更されました。また、当時時計輸出の70% がポンド地域向けでしたが、1949(昭和24)年9 月のポンド切下げ実施などにより、輸出が大きな影響を受けました。このような状況により、国内需要の停滞を輸出により回復しようとする時計産業は、甚大な打撃を被ることになります。
日本の時計産業が本格的に立ち直りを見せたのは、1950(昭和25)年7 月に勃発した朝鮮動乱に負うところが大きい。偶々、高度な精密機械をスイスより輸入することができ、従来の老朽化した機械に替わり、最新の精密機械によって高品質の時計が生産できるようになりました。朝鮮動乱による日本経済の急激な立ち直りに伴い国内需要は活発化し、1954 年には、戦前の最高生産高を上回る560 万個を記録しました。また、質的にも、本格的な部品の互換性をもつ段階に近づいて、精度でスイスの時計を追う兆しを見せ始めました。当時は、外国時計に対する輸入制限と高率の関税障壁に国内市場は守られていましたが、朝鮮動乱以来、激増した密輸時計と米軍兵士が持込む中古時計が氾濫、横行し、時計の正式輸入が認可された1952(昭和27)年以降も安価な密輸時計で市場は混乱し、国産時計の売行きにも多大な影響を及ぼしました。
第二次世界大戦は、日本の時計産業に計り知れない技術的後進性をもたらした。戦中の5 年間、時計生産技術の進歩が阻止され、中立国スイスとの間に大きな開きを生じました。例えば、次のような点は日本の水準を遥かに抜いていたのです。
- 自動巻ウオッチの完成
- 防塵、防水装置の実用化
- 磁気不感性ぜんまいの開発
- 耐震装置の一般化
これに対し日本は、1949(昭和24)年に紳士用中三針形式を採用し始め、1952(昭和27)年にはカレンダー付時計、1955(昭和30)年には自動巻時計、そして1956(昭和31)年に耐震装置付きの時計を発表します。当初、輸入の合金ヒゲぜんまいを使っていましたが、やがて国産化に成功して部品精度、部品の仕上げでもスイス製品の水準に迫っていました。しかし、1957 年頃までは正規輸入あるいは密輸入でのスイス時計が、依然として品質と流行をリードし、性能、デザイン、コスト等あらゆる面で優っていた時期でもありました。
図3 流れ作業、コンベアシステム作業の様子 |
昭和30 年代、日本時計産業界は技術の遅れを取り戻すことが急務となり、各種施策が以下のように実施されています。1956(昭和31)年、中小クロック企業の時計生産技術の改善発達を目的にした「(財)日本時計生産技術開放研究所」の設立、1957(昭和32)年、企業近代化のための「企業合理化促進法」、1959(昭和34)年の「機械工業振興臨時措置法」の業種指定です。
民間側においても、品質の一層の向上を目標に、脱進機、調速機、歯形、真類(金属よりなる棒状の部品)、軸受の研究分析、材料、部品、工具類の研究開発が産学共同で進められました。生産の合理化を図るため、高性能の自動加工機、測定器、工作機械等を導入しました。
数年の間に、工場設備は全く一新され、生産効率、加工精度も著しく向上したと同時に、ベルトコンベアシステムによる流れ作業が可能となりました。また、品質管理をはじめ各種管理技術を生産工程に導入し、作業の標準化、工程管理の充実が図られ近代的な量産体制が確立されました。(図3 参照)
昭和30 年代後半に入り、品質は海外品と遜色のないほど向上し、機能、デザインなど変化に富んだ製品が多くなり、1959(昭和34)年以降の一般景気の上昇による内需拡大に伴って、生産は急伸長を遂げました。特に1955(昭和30)年から1964(昭和39)年の10年間の伸びは、ウオッチが5.9 倍、クロックが3.2 倍と著しいものでした。(図4 参照)
図4 戦後の時計生産、輸出推移
国内需要が急拡大したのは、国産品の品質向上とともにその評価が高まったことと、以下のことが考えられます。
- 戦後の空白期間により膨大な潜在需要が生じたこと
- 所得水準の上昇に伴って、需要層が低年齢層にいたるまで拡大したこと
- 時計に対する意識が、貴重品、奢侈品(しゃしひん)から生活必需品、流行商品、装飾品へと移行したこと
この後、普及の頭打ち、内需の伸びの鈍化の見込みから、成長力維持のためには輸出拡大の方策を講じる必要に迫られ、1959(昭和34)年頃より海外市場に対する本格的な調査が始まります。1963(昭和38)年、軽機械の他の7 業種と共同の軽機械センターが開設され、輸出振興、市場調査の面で期待されました。
この頃になると、日本の時計は、品質面で国際水準に達しており、コストダウンにより価格も安く、十分な国際競争力も備えていましたが、日本品に対する信頼性、ブランドイメージの低さなどが、輸出促進の阻害要因となっており、各センターは、各地の情報収集、現地マスコミを媒体とした広範な宣伝活動などを展開しました。
図5 第18回オリンピック東京大会 1964年
(出典:セイコーミュージアム)
1964(昭和39)年のオリンピック東京大会で、競技計測システムに国産時計が初めて採用され、その正確で統一されたシステムが一躍注目を集める一方、スイスでの時計コンクールにおいて、国産ウオッチが上位を独占するなど、日本の時計技術の高さが広く世界に認識されるとともに、ブランド知名度も一挙に上がり、以降の飛躍的な輸出拡大に繋がりました。図4 に示すように、1955(昭和30)年代、旺盛な内需に支えられた生産の伸びは、1965(昭和40)年代以降になると、急速な輸出拡大が大きく伸びに寄与しています。日本の代表的輸出産業の一つとして発展を続け、国内の不景気に遭遇し内需不振となっても、輸出でカバーし得る体制を確立しました。この結果、1963(昭和38)年の輸出比率23% から1970 年に31%、1974 年には42% に上昇しました。特に、ブランドが強化されたウオッチの伸びは著しく、1974 年の輸出比率は56% に達し、スイスに次ぐ生産、輸出国となりました。
日本における電子化への動きは、クロックにおいては1955 年代から始まっていましたが、ウオッチでは1965年代に入りスタートすることになります。1966(昭和41)年、動力源をぜんまいの替わりに電池に置き換えたウオッチが出現します。自動巻が主流であった当時、ぜんまいを巻く必要のない電池式ウオッチは、新機軸なものではありましたが、精度上の貢献は少ないものでした。
1960(昭和35)年、機械技術と電子技術の融合を目指す、金属音叉を調速機とする電子音叉式ウオッチが現れます。音叉式ウオッチは、日差を一躍2~3 秒程度に縮め、時間精度の向上に一役果たしたものの、クオーツ腕時計の出現によって世界的な趨勢にまでは発展しませんでした。
一方、クロック類には1962 年頃より採用され、その高精度が認められていた水晶振動子をウオッチに利用することが試みられていました。スペース上制約があるウオッチの中に、如何に入れ込み携帯可能な小型なものにするか研究が進められました。
図6 世界初のクオーツ腕時計と 6桁表示液晶デジタル腕時計 (出典: セイコーウオッチ) |
1967(昭和42)年、クオーツ腕時計の試作モデルが、日本とスイスにおいて同時に完成します。そして、1969(昭和44)年水晶式アナログタイプのウオッチが、世界で最初に日本によって商品化されました。(図6参照)
時計本来の特性である高精度化を追求し、日差0.2 秒前後という機械式時計の100 倍近い精度を有するウオッチとして市場に出されたのです。この商品化を可能にした電子技術の応用は、日本のみならず世界の時計産業に大きな変革をもたらしました。電子技術の導入は、企業に生産体制の変革を促すと同時に生産性を著しく向上させ、さらには画期的製品をも生み出すことになります。1973(昭和48)年、LCD(液晶ディスプレイ)表示によって世界で初めて時・分・秒の6桁表示を実現したデジタルウオッチを商品化します。(図6 参照)
時計の電子化への進展は、普及の飽和状態にあった市場に新たな需要を喚起すると同時に、従来以上に量産工程を可能にし、他業種からの参入もあり、日本では新たにウオッチで2 社、クロックで4 社が時計産業に加わりました。各構成部品の性能は急向上し、量産化によってコストダウンも急速に進み、機械式の価格帯まで低減したため、国の内外における価格競争は一段と激しい方向に進むことになります。
1968(昭和43)年頃より始まった国内企業の海外進出は、生産の海外移転による効果のみならず、投資先からの逆輸入、投資先への資本財、半製品輸出などの効果を通じて、国内産業構造の変化を推進しました。労働集約型産業である時計工業は、豊富な労働力と低賃金を求めて、韓国、台湾、香港、シンガポール、フィリピン等に第二の生産拠点を求めると同時に、これら発展途上国の経済発展にも貢献しました。
技術面のイノベーションの進行と共に、生産、輸出とも順調に推移し、1979(昭和54)年の生産は、ウオッチ5,970 万個、クロック4,350 万個、総生産は1億個を超え、名実共に世界第一の時計生産国に成長しました。競争相手国であるスイスが、クオーツ腕時計の将来予測を誤ったための電子化への対応の立遅れ、スイスフランの高騰などにより、低迷・後退を余儀なくされているのに反し、日本は、価格競争力の強み、クオーツ式の技術での先行から、着実に国際的なシェアを伸ばしていきました。
図7 に示すように、その後の主流となるクオーツの生産比率を年毎高めており、1978(昭和53)年40%、1979 年57% となっています。図8に示すのは、クロックの電子化による機種の変遷の状況ですが、ウオッチと同様、機械式、交流式が落ち込み、水晶式がその一部を占める電池式が急速に伸びています。クオーツ式は、1979 年においてクロック全生産の50% に達しました。
図7 1970年代のわが国のウオッチ生産
(電子化への推移)
図8 1970年代のわが国のクロック生産
(電子化への推移)
前述のように、日本の時計産業は電子化の進展と歩を一にして海外への生産移転を伴いながら拡大しました。図9と図10は1979年以降2015年までのウオッチとクロックの政府統計と日本時計協会統計の差異の状態を示しています。
図9 政府統計の生産・輸出と
協会の総出荷データの関係(ウオッチ)
図10 政府統計の生産・輸出と
協会の総出荷データの関係(クロック)
日本時計協会では、時計製造の海外移転の進展に伴い、政府の統計のみでは日本時計産業の実態が把握できない状況を踏まえ、1992年より独自に海外生産、海外出荷を含めた統計資料を収集整備し、グローバルな統計指標を作成してきました。
ムーブメントとはケース(側)に組込むことで完成品の時計となる状態の時計機械体、シャブロンとはムーブメントに組み立てるための部品セットのことです。
1985年9月のプラザ合意以降円の国際評価が高まり、1980年以前とは異なる貿易条件が長く続き定着したことに国内時計メーカーは対応をしてきました。
ウオッチのグラフを見ると、経済産業省の生産統計の完成品・ムーブメント・シャブロンの生産数量と財務省通関統計の輸出数量、および日本時計協会のグローバル総出荷数が同期して増減しています。国内で製造されたムーブメント・シャブロンの大半は海外に輸出され海外のメーカー製品に組み込まれると同時に、一部は海外にある日本時計メーカー子会社で製品に組み込まれ、日本を含む各国に直接輸出されています。海外にある日本時計メーカー子会社でムーブメントも製造されている場合もあります。このようにウオッチは日本を中心として国境を越えた製造の水平展開が行われるようになりました。クロックの場合は需要構造の変化にも影響され、日本メーカーの製造現場そのものがほとんど海外に移転してしまった状況が見て取れます。
時計の電子化への変化は、流通面にも大きな変革をもたらしました。機械式時計時代は、保守的な流通秩序が維持され時計専門店中心であったものが、電子化と共に、スーパー、ディスカウントストア等大型流通店、その他電器店など他業界販売に中心が移り、小型の時計専門店等に多大な影響を与えました。
国内時計メーカー各社は、時計の時間精度、信頼性、携帯性等の向上、追求に様々な知恵を結集してきました。太陽電池発電、自動巻発電、熱発電、ぜんまい駆動発電等エネルギーを作り出し、利用する知恵で地球資源の保護、各種センサーによる計測機能付き時計、金属アレルギー対応等の消費者保護に力点をおいた商品作りを進めました。時計は、更なる高機能化、高時間精度化、通信機能、健康分野への応用、太陽電池発電電波修正時計、太陽電池発電衛星電波修正時計等多様化、高度化されたウエアラブル機器へと進化を続けています。
2 日本の時計生産推移について
現在の日本市場は、太陽電池発電式電波修正時計、高価格帯腕時計、高級機械式腕時計等高付加価値商品が売り上げを伸ばしています。一般社団法人日本時計協会の推定では、2015 年の国内市場規模でウオッチが金額で9,002 億円、数量で3,690 万個、クロックが金額で554 億円、数量で2,880 万個としています。ここ数年、海外観光旅行者、特に中国人観光客の購入が増加し売り上げへの影響は大きいものがあります。
本項では、日本の時計生産推移の概況とともに、世界の生産数における日本の生産比率について述べます。
2.1 日本の時計生産推移について
日本の時計生産推移を出荷の推移よりみると、図11 にウオッチの完成品、ムーブメント・シャブロン(ムーブメントの構成部品の完全なセット)の総出荷の推移のグラフを示しています。尚、2007 年と2008 年の不連続は、2008 年より国内出荷価格の算出基準を変更したため、前年までの金額との比較はできません。
表1 より、2009 年はリーマンショクの影響で落ち込み、2010 年はその反動もあり2008 年の数量をカバーしています。しかし、アナログクオーツの生産数量は2010 年から減少しており、逆にデジタルクオーツおよび機械式は微増の傾向にあります。総合計として、2009 年54、290 万個、2015 年51,615 万個とアナログクオーツの減少分が影響しています。金額面では、2009年から上昇傾向にあり、特に2012 年からの上昇率は12~15%と非常に高くなっています。数量の減少と金額の上昇傾向を考えると、時計完成品の単価アップ、付加価値の高い商品へ移行していると判断できます。
図11 ウオッチ(完成品 + ムーブ・シャブロン)の
総出荷の推移(2002~2015年)
表1 ウオッチ(完成品 + ムーブ・シャブロン)の
総出荷の推移(2008~2015年)
(日本の時計産業統計より抜粋)
図12 は、クロックの完成品、ムーブメントの総出荷の推移のグラフを示しています。ウオッチと同様、2008 年より国内出荷価格の算出基準を変更したため、前年までの金額との比較はできません。表2 に数値を示しますが、置目覚・掛の数量は微減傾向にあるものの、金額面では大きな変動はしていません。
図12 クロック(完成品 + ムーブメント)の
総出荷の推移(2002~2015年)
表2 クロック(完成品 + ムーブメント)の
総出荷の推移(2008~2015年)
(日本の時計産業統計より抜粋)
日本の時計産業の歴史を振り返ると、人々に品質が良い壊れない時計をリーズナブルな価格で提供し、日常生活の質を高めることが目的でありました。結果、実用時計として品質の良い頑丈な付加価値を持った時計として世界に認知されてきました。クオーツ時計をベースに、スイス時計産業にはできない高付加価値商品を開発し、世界の先頭を突っ走ることを目指しました。幸い日本の時計産業は、クオーツ腕時計の進化に並行して電子部品メーカーの開発技術も目覚ましく進歩し、素材、部品メーカーとのコラボレーションにより、新しい機能の開発も進み世界をリードする製品を多く上市しています。液晶デジタルクオーツの開発と腕時計の低消費電力技術により、多くの家電製品にそのデジタル表示技術が応用されています。
時計、特に腕時計という産業製品は新しい技術が生まれても従来の主流技術を消し去る様なことがありません。現在も機械式時計は精密工芸品や宝飾品としての地位を保っています。電池交換不要の太陽光発電機能や通信機能が加わり高度化されたウエアラブル機器が登場しても、安価で信頼性があり時流に合ったデザインの電池式クオーツの需要もあります。本稿では2015年までの35年間を、「日本時計協会30年史」をベースに「日本の時計産業概史」として加筆しました。次の30年間で日本の時計産業はどのように変化・発展するか見守り続けていきます。
図13 国立科学博物館の「重要科学技術遺産(愛称:未来技術遺産)」に登録(2018年度)
世界初のクオーツ腕時計(出典: セイコーウオッチ) |
世界初の多極受信電波腕時計(出典: シチズン時計) |
参考文献:
- 「日本時計協会30年史」(日本時計協会)
- 「時計に関する生産・輸入統計1989年」(日本時計協会)
- 「日本の時計産業統計2008年・2016年」(日本時計協会)
- 日本時計協会HP「時」と「時計」のエトセトラ(日本の時計産業概史:旧版)
- 「技術の系統化調査報告・共同研究編」第10巻
- 「時計技術の系統化調査」(国立科学博物館・北九州産業技術保存継承センター編、2017年3月)
- 「工業統計表」(通商産業省) 平成10年版
- セイコー時計資料館(現セイコーミュージアム)各種史料
- シチズン時計 各種史料
- 「日本の時計」山口隆二著、日本評論社、昭和25年
- 「時計史年表」時計史年表編纂室編、河合企画室、昭和48年
- 「時計工業の発達」内田星美著、セイコー時計資料館(現セイコーミュージアム)、昭和60年
- 「時計発達史」高林兵衛著、有明書房、昭和60年
- 「時計」清水修著、日本経済新聞社、平成3年